戦争と平和!平和を求めてなぜ戦争なの

戦争と平和!平和を求めてなぜ戦争なの

広島の中心部にギターの弦を買いに行きました。弦を買ってから少し町並みをブラリしていると、平和公園に来てしまいました。「広島にいながら原爆資料館に来たことないなあ」「いや、ずいぶん前にあるような気がするけど」っとか思いながらも入館してみることにしました。

「原爆投下前」と「原爆投下後」の模型があり、こと細かに再現してありました。私は広島生まれなので懐かしく見ておりました「っん、たしか昔あった川がないなぁ」など、幼かった頃の思い出とダブラせてみて、ついつい長い間見入ってしまいました。

余談ですが調べてみると、広島には昔7っ川があったけど山手川と福島川を現在の太田川放水路に統一されたので、現在では6つしかないということでした。

そして資料館を出た後、紙屋町付近の電車通りを歩いていたら、いま原爆資料館で見たあの何もない原爆投下後の模型とダブってからか、今見ている街並みがものすごく狭くて窮屈に感じました。っと同時に,なんでも自由に好きなことができる、そんな時代に生きていることに、改めて幸せを感じながら歩いておりました。

戦争と平和!平和を求めてなぜ戦争なの

戦争の悲惨さを後世に伝える

私の知り合いで原爆の悲惨さを、後世に伝えるための活動をしておられる童話作家の先生がいます。中学教諭の定年を機に、退職金をはたいて会社を設立。各学校に回っては体育館などでフィルム映写機を回しながら、大勢の生徒たちを前に原爆の悲惨さを伝えているのです。その他にも原爆体験の絵本を数冊出版しておられます。実際に被爆した人の体験談なので、リアルに伝わってくるのです。

伏龍特別攻撃隊

伏龍特攻隊
(ふくりゅうとっこうたい)
という存在をご存知でしょうか

先生の話ですが終戦まじかにアメリカが本土に上陸してくる、という切迫したときに考案され「実際に計画したけど実現しなかった」という戦法があったというのです。その話は初めて聞いたのですが、理解するにはかなり時間がかかりましたです。それは戦争というものがいかに無駄であり、勝てる訳がないという悪あがきにしか見えない印象を受けたからです。

伏龍特別攻撃隊
訳して
伏龍特攻隊
です

神風特攻隊
は知ってるけど
伏龍特攻隊は
あまり知られていないんです

日本の戦況が悪化してアメリカ軍が日本本土に上陸の気配が見えてきた昭和20年、神風特攻隊は飛行機も燃料もないほど悪化、アメリカ軍が本土上陸を目指しているという、切羽詰まった状況のときに考えられたのが海に潜って待ち伏せるという伏龍特攻隊なのです。

戦争と平和!平和を求めてなぜ戦争なの

伏龍特攻隊の戦法とは、アメリカが日本に上陸してきたときに、重戦車の上陸を阻止することが目的なんです。海の底に潜ってから竹竿の先に爆弾をつけて、上陸してくるまでじーっと待つのです。上陸してきたら下から持っていた爆弾ごと体あたりして自爆するという、いわば人間機雷なのです。子供だましのようで何の効果もないということは、一目で分かるのですが切迫した状況では仕方がなかったのでしょう。

そして、わが村の英雄になれて銅像も残るという、神風特攻隊を夢見て志願してきた若者が連れていかれたのは、空ではなくプールでした。そこで行われていたのは過酷な潜水訓練で、粗末なゴム製の潜水服で潜るという訓練だったそうです。

酸素は数時間しかもたなくて、ちょっと後ろにそったらバランスを崩して、元には戻らなくてアウト。空気を吸ったり吐いたりする調整を、少しでも間違えたらこれもアウト。実際に水漏れなどの不具合から、訓練中の事故死が相次いだということです。

若い志願制は慣れない潜水に苦しみました。特攻隊に憧れた若者達が、なぜ水の中に潜らなければいけないのか理解できなくて、実に情けなかったそうです。そして実践ではアメリカ軍の艦砲射撃をくらって、まったく役にたたずに終戦を迎えた為に、あまり知られていないのです。

最後に一言。戦争なんて見苦しいばかりでみじめなだけしかないのに、なぜ今でも世界中で繰り返しているのか不思議で仕方がないのです。この伏龍特攻隊が戦争の結末を象徴しているようで強烈に印象に残っていたので紹介してみました。

戦争と平和!平和を求めてなぜ戦争なの

平和を求めてなぜ戦争なの

平和を求めて戦争をする、戦争って殺し合いではないか。殺しあうことが平和であるならば、殺しあえば平和になるの。当たり前に考えたらおかしな話です。しかも責任ある指導者達がやっていることなのです。

はたしてその先に平和が来るのだろうか。殺していれば良くも悪くも周りまわって自分に振りかかってくるだけなのに。

しかし平和が続くと争いになってくるのはなぜ。平和だと不平・不満が表面化してくるからかな、平和が続くことは不可能なのかな。それは私達の身の周りに学びがあります。

さりげなく見逃せば良いことも、何かにこだわって感情をむき出しにすると争いになる。気にいらないことはあるのが当たり前、「まあ、それもアリか」で過ごしていけば良いのにっと、つい言いたくなる。これが国と国どおしのことになると、その言いたいことが言えない。

子供のケンカと国と国との戦争は、同じ理屈で規模が違うだけ。相手の意見は無視して自分の意見をゴリ押しするだけ。戦争をしている首謀者達は子供と同じ頭脳なのかな。

規模の小さなものが口喧嘩、規模の大きなものが戦争。何かをきっかけに振り上げたこぶしのおろす場所がなく、最後は意地だけで終結を迎える。気がつくと身も心も環境も廃墟だけで、得たものは何もないのです。

戦争と平和!平和を求めてなぜ戦争なの

平和であるが故の戦い

確かに今の日本は戦争もなく平和な時代が続いております。しかし平和であるが故の戦いは続いております。幸せにしても仕事にしても恋愛にしても、考えようによってはすべてが戦いです。生きている限り自分の幸せを守っていく為には、常に戦っていかなければならないのです。
〇 ご近所トラブル
〇 離婚問題
〇 嫌がらせ・モラハラ
〇 悲惨な交通事故
〇 執拗なあおり運転
〇 凶悪化してくる事件
〇 ケタ違いの自然崩壊
〇 消費者金融の超過貸出し
〇 聞くに耐えない政治家の討論
〇 コロナなど未知の病気
などが、現実に身近に起こってきております。しかも理解できない・考えられない・タチの悪いなど首をかしげたくなるようなことばかりです。

つまり身に起ってくることに対しては戦わないと流れに遅れたり、他人からの言いなり人生になってしまって取り残されてしまうのです。そしてちょっと間違うと、不幸でみじめな生活をしなければならなくなってしまうのです。

戦いとは殴り合ったり殺しあったりするのではなく、自分のこころの中にある自尊心を確実にするために、周りの人達の意見や取り巻く環境に対して、振りまわされないように自分の欲望と戦うという意味です。

戦うという意味が理解できなくて「めんどくさいので、私はそれで良いんです」という人もいるかと思います。それもアリかなということにしますが・・・

【特集記事】戦争と平和

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