頼まれごとは受け入れる!できるという前提でやってみることから考える
もしも頼まれたらどうしますか
私は頼まれごとは、まず受け入れることから考えるようにしております。自分を頼ってきたのですから「それをやってみなさい」という意味だと思うので、できるできないよりもチャンスだと思って、できるという前提で成り行きに任せた方がうまくいくと考えます。
そうしないと
自分の能力に歯向かうこと
になるからです
うまくいけばそれで良いし、たとえうまくいかなかったとしも、必ず何を得ることが出来ます。どちらにしても良い結果になるということです。
頼まれるという意味
10年ぐらい前になりますが、今まで音沙汰なかった同級生から「同窓会を地元の身近にいる人だけでしたい」と電話がありまして、もちろん出席して久し振りの旧友に懐かしいひと時を過ごしましたです。
それからは地元だけで年に2~3度ぐらい集まって、わいわいしてしております。そうした中で「全国に案内状を出しての全体同窓会を、3年に一度ぐらいやりたいね」っという話になりました。
同窓会の幹事に即答
そして3年の一回目の全体同窓会が過ぎたころに、幹事から「地元同窓会と次回の全体同窓会の幹事をお願いしたいのだが」と電話がありました。幹事といえばいろいろ大変で、誰もしたがらないのですが即答で引き受けたように思います。なぜ引き受けたかは分かりませんが、無意識に引き受けたような気がします。
始めてみるとやはりイロイロと試行錯誤で大変です。幹事の経験はなく、どうして良いのか分からないからです。でもイヤだという気持ちはまったくありませんで二回目も務めたところです。やるごとにだんだんと慣れてくるしアイデアなども浮かんでくるので、次の三回目の準備に意欲を燃やしております。
大変なことはあたり前
みんなからは「良くやってくれるね」とか感謝の言葉をいただくのですが、こちらが感謝したいぐらいなので返事に困ってしまいます。中には「あなたがいちばん楽しんでいるょ」と言われました。そういえば出席者の中で一番楽しんでいるのは、たぶん私だと思います。それは大変なことは当たり前で、そちらより楽しむ方に焦点が合っているのではないかと思うのです。
やりなさいというメッセージ
誰かが頼って
連絡をしてきたということは
「今あなたはこれをしなさい」
というメッセージ
最初は無意識に引き受けたのですか、なぜ面倒くさい幹事を引き受けたのかこの頃になって気がつきました。その頃はうまくいくためには何だろうと日々考えて、数年たっていたので自分の心の中に、即行動することの大切さが身についていたのだと思います。事実こういうことは理屈ではなく、どう転んでも悪いことはなく反射的に反応していたのだと思います。
考え方に変化
やはりやってよかったです。人をコントロールしたことのない私ですが「みんなをまとめていく」という骨格が少しずつですが分かりはじめて、しかも実行できつつあります。次の幹事を探す予定もなくみんなも何も言わないので、これみよがしに続けております。
そして同窓会も定例化してくるとどうしてもマンネリ化しつつあります。出席者を増やすことを考えたり、出席者に満足してもらうことなど、その都度いろいろと工夫しておりますが・・・
しかしその考え方に
少しずつ変化が生まれてきます
同窓会幹事を続ける意義
行動するきっかけ
同窓会に集まる意義を考えたとき、集まったその時は一瞬学生時代に戻ります。思い起こせばその当時、いろいろと夢見たりアレコレとやってみたいことなどを語り合ったものです。いつしか仕事などですっかりと忘れてしまってはいるものの、少し手がすいた今だからこそやってみたいことなどが必ずあるはずです。
ちょっと学生時代を振り返っていただき、行動してみるというのも良いのではないのかなと思います。その為のきっかけになれるような集まりにしたいという考え方に変わってきました。
行動する準備は整っている
今の世の中すごく進化して便利になった半面、それが故に忙しくなったりいろいろと異変な事柄が起こったりと、ともすれば自分を見失いがちになったりしてしまいます。
周囲のゴチャゴチャに振り回されずに集まったそのひとときを、そんな感じで楽しんでいただき、なにかしらの行動に結びつけていただけたらと思うのです。これからもこんな幹事で感じを続けていきます。(っあ、すみません幹事と感じが逆でした)
裏側にある良いところを見る
私なのですがやることが多すぎるのですが、何とか頑張って行動しております。そんな中で「あなたはすごく元気だけどなぜ」とか「からだの中でどこか悪いところはないの」とか、よく尋ねられます。
正直言って
悪いところだらけ
です
しかし最近思うのですが悪いことでもその裏にある良いところが見えてくるので、良いことしか起こらないというわけです。
たとえ悪いことが起こったときには、これは体か機能しなくなる前のサインだと考えて、その前に予防・処理をしていくという方向しか見えないのです。つまり良いこと行動だけをしている自分がココにいるということです。
少し考え方を変るだけで
私には良い事しか起こらない
ようになってきたのです
宴で飲んでいるときにも「しかし、あなたは元気ですねー」「だから幹事ができるのですょ」とか言ってきます。「そうじゃないですけど」・・・逆です逆
元気だから
幹事しているのではなく
幹事しているから
元気がでるのです
人生逆心理
です
神経を騙す
ちょっと油断していると、ガタガタとくるぐらいにたくさんの悪い箇所がありますが、そんなことも忘れてしまって、神経の方も忘れてしまっているんじゃないのカモです。ひょっとして自分の神経に行動を通して「絶好調ですょ」と騙している感じです。
・・・・・っん、ちょっまてよ、今すごく良いことを言ったような気がする。「神経を騙していく」「神経を、うまく騙していく」うーーむ、「騙す」って聞くと悪いイメージが浮かんできますけど、良いように騙すという方法もありですょ。
その騙すで思い出しました。うまく騙されたいという思いはいつも持っていたので、最初に幹事の依頼の電話があったときに「全員一致で、あなたが適任で選ばれましたょ」なんて、みえみえのお世辞がありましたが「そうかーっそうなんだ」とか言ってうまく乗せられた振りをして、そのまま自分の脳も騙してしまいました。
無意識に即返事した効果は、はかりしれない自分の財産になりつつあります。なので良いことだらけで、やはり良いように騙すという方法もありですょ。
気がつくと周りが変わっていた
こんな調子ですべてのことに即行動を実行しております。っというよりも無意識に反射的にしております。でも自分にとって良くないことはまったく反応しない・誰も近ずいてもこない・言ってもこないです。そして付き合う周りの人達が一変しました。今までいかに悪い環境にいたかです。気が付いてみれば、ひとランクの高い人達ばかりが周りにいたのです。
頼まれごとは試されごと
ついつい同窓会の話が長くなってしまいましたけど、そろそろ締めたいと思います。人から物ごとを頼まれるということは、これをやってみなさいという意味なのです。「頼まれごとは試されごと」と言います。あなたの行動を試されているのです。まずはやってみることから考えるべきです。断れば何もしなくても楽なのですが、視野が狭くなって、なぜだか福の神が遠のいて、貧乏神が近づいてきそうな気がするのです。
引き受けたことによって誰かの役に立ちます・誰かが喜んでくれます。世の中に自分が存在している意味があるというものです。こんな人に福の神がニコニコして、喜んで近ずいてくるというイメージでしょうか。これからも私が元気な限り幹事を続けていきたいです。そして「幹事をしている私を参考にしたい」っと思って同窓会の出席していただけるように振る舞っていこうと思います。